社会がもたらす悲劇

看護に明け暮れている日常から抜け出すようにして、何かいいストレス解消がないものかとその対象となるものにしがみつこうとする看護師がおられるでしょう。その対象とは、物であったり人であったりと様々であり、自分が不満をぶちまけても文句の一つも言わないものに惹かれていき、それを酒の肴にするかのようにして、自分に溜まった鬱憤を吐きだしていくのです。そうした行動が大人の社会でもみられている現実に、思わずへき易してしまう方がいても不思議ではないのであり、看護師の中には、まるで自分の意のままに操るかのようにして、事あるごとに自分のドロドロとした感情を理解してくれるであろうその人に対して延々と愚痴を言ったり、あるいは自分が吐き出す言葉のサンドバッグにするかのようにして、その聞き手が仕事での不満を聞いているかどうかなんてお構いなしに喋り続けることがうかがえてくるのです。不満を吐きだす方が、マシンガントークに疲れの色がにじむまでじっと耐え忍んでいる方というのは、喋り続けている人に対してどのような気持ちを抱いているのだろうかと気になる方が少なくないでしょう。その聞き手が本当に話し手に対して、その人の心が救われるのならば、ストレス解消の対象としての役目を快く引き受けることに全くの抵抗を感じないことも考えられて、周りから聞き上手だとされる方にとっては、そんなのお安い御用さ、と言わんばかりに相手の愚痴に付き合うことが自分にとっての使命なのだというくらいに考えていても不思議ではないのでしょう。ともあれ、この世に納得のいかないことや自分の障害になるものがはびこっている限り、ストレスがなくなることはありえないのであり、いつの時代にもストレス解消の対象となる人の存在があることがひとつの文化となっているのです。そうした文化があることで、世の中の統制が保たれていることが皮肉なことだと感じている方がいることも事実なのでしょうし、多様なストレス解消が日本の社会に浸透していることが明日の日本を作り上げている現実に、日本の行く末がどうなっていくのだろうかと気になる方がおられると思うのです。それは、常に正しい考えでストレス解消が行われないことで、日本が軌道修正さえもままならないくらいの不時着を余儀なくされることが起こり得るということなのです。結論として、ストレスによってどれほどの悲しみを引き起こしていくのかを理解していくことが大事になるのです。

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